shishouの独り呟き

アラフィフ、独身、派遣社員。薄給なのに趣味は金のかかるものばかり。そんな女の日常です。

勘三郎さんが居なくなってからの歌舞伎界を想う

※始めに断っておきますが、ここに書いたことは全て私の主観であります。一部否定する部分もありますが、その辺はご了承ください。もし気に障りましたら申し訳ありません🙇

10月11月、中村勘三郎さんの追悼公演が歌舞伎座平成中村座とで続けて実施されました。
どちらもとても賑わっていて、役者さんたちの熱量も伝わってくるいい公演でした。
恐らく勘三郎さんも草葉の陰から見守っている事でしょう。

しかし…歌舞伎界は、何だか「これでいいのか?」と言う方向に向かおうとしています。
歌舞伎の良さは、昔あった歴史的な出来事や庶民の生活をテーマとしたいわゆる「古典」にあります。
確かに難しく、敷居が高い演目もありますが、思ってるよりは難しくなく、イヤホンガイドと言う有り難いシステムもあります。
ところが…最近、特にこの2~3年、いわゆる「新作」が乱立しています。
新作も、例えば古典や落語、昔の話をベースにした作品ならまだいいのですが、全く関係のない作品を歌舞伎化したものが増えている傾向が強いです。
そして、それらが世間一般に歌舞伎作品として話題になっている気がします。
それに危機感を覚えるのです。

亡くなられた勘三郎さんは、確かに新作を多く公演していました。
しかし、基本のベースは意外と古典作品が多いですし、ご本人も古典をとても大切にしていました。
それでも、彼に求められていたのは新作だったようです。例えば、野田秀樹さんや串田和美さんらの脚本の作品ですね。
それはそれでいいのですが、観客が求めている作品と、自らが求めている作品との微妙なズレがあり、葛藤されていたのではないか、と。

それは、今の若い歌舞伎役者たちにも言えると思います。自らが演じたい役と、観客が求めている役が微妙に違い、どちらかと言うと観客が求める方に流れているのかな、と。
本当に自分がやりたい役を真摯に演じているのは、海老蔵さんくらいなのでは。

この方は現在、決して恵まれた環境ではないですし、あれだけの実力や集客力を持ちながら、歌舞伎座で大役を任せられる機会が少ないにも関わらず、自主公演を中心に次々に古典を演じられています。
来年1月の新橋演舞場の公演の演目を見ても分かるのですが、それがとても伝わってきます。
それが、平成中村座における勘三郎さんと同じものを持ってるような気がします。
勘三郎さんも、歌舞伎座ではなかなか大役を演じることが出来ませんでした。
そこで平成中村座で古典を中心に大役を演じられた。

そしてもう一人、勘三郎さんと同じ匂いのする役者さんが市川猿之助さん。
現在歌舞伎座で「法界坊」を演じられていますが、とても評判がいいようですし、猿之助さんに合っていると思います。
猿之助さんも勘三郎さん同様、いやそれ以上に新作のイメージの大きな役者さんですが、この方も意外と古典を大切になさっている。
聞けば、若い頃新作に傾きかけていた猿之助さん(当時は亀治郎さん)を、お父様が敢えてそこから一時期外させ、古典の基礎を学ばせたとか。
それが今に繋がってると思います。
猿之助さんの女形はそこから生まれたと言えますし、これが彼の芝居の幅を広げたと言って過言ではありません。
この方も決して恵まれた環境ではないですが、次々と新作や古典を自分のものにしている。
「法界坊」は、女形の亡霊も演じられるので、その資質もなければなりません。そう言う意味では今の猿之助さんにはピッタリだと思います。

今の歌舞伎界で、ある意味観客を呼べる役者は、間違いなくこの二人と言えます。
そして、それがむしろ不安でもあるのです。

別に海老蔵さんや猿之助さんが悪いわけではないのです。彼らが向かっている先は決して間違っていない(そう信じたい)。
ところが、観客がそれを求めているか…と言うと、少しズレてくると思うのです。

歌舞伎ファンが今の歌舞伎に求めること。
それが、一般の演劇と変わらなくなってることに危機感を覚えるのです。

歌舞伎はある意味敷居が高く、難しい演目も多い。
しかし、今の歌舞伎ファンはもっとエンターテイメント的なものを求めている。むしろ古典でなくてもいい、と言う感じが見受けられるのです。
もちろん、古典ありきのファンもおられますが、そう言う本格的な演目の時はそんなに観客が集まらない。
ここ数年は「ワンピース」「弥次喜多シリーズ」など新作の分かりやすい作品が人気を呼んでいます。
それ自体は悪いことではない。
でも、歌舞伎の本来の流れの作品より、こう言う作品が人気なのは、危機感を覚えます。
それらもいいけど、もっと古典を大切にしてほしい。

平成世代の若い役者さんは、とても熱心で才能溢れる方々が多いですが、古典の基礎がまだ習得できてないうちに新作に走っているような気がします。古風さよりも華やかさ、エンターテイメント性を求められてる感があって、古典の才能を阻まれてしまってると言えばいいのでしょうか。
平成の世に求められるものと、歌舞伎の本来の良さがズレてるような気がします。

劇団☆新感線でいわゆるいのうえ歌舞伎が上演されていますが、歌舞伎界にもあの手のエンターテイメント制が求められてる気がします。
でも、歌舞伎は歌舞伎。
本格的な芝居ありきなのに、それを理解するファンが多くない。それよりも楽しければいい、とか楽しくないと嫌だと言う人が増えています。
これは私も含めファンも反省しないといけない点です。古典や難しい作品をもっと受け入れるべきですし、役者もちゃんと古典を学ばなくてはならない。

そう言う意味で、このままで大丈夫かと言う不安は大きいです。
崩壊こそしないでしょうが、本来の歌舞伎の目指す道と、周りが歌舞伎に求めるもののズレが、ますます大きくなる危険性があります。

それを食い止めるためには、まずは先輩役者がしっかりと基礎を叩き込むこと。
現に坂東玉三郎さんが、女形に対してはそれを実現されています。
それが来月の歌舞伎座で一つの形になって、「阿古屋」で中村梅枝くん、中村児太郎くんが挑戦するのですが、玉三郎さんはこのような危機感を一足先に感じていらしたようで、他にも尾上菊之助さん、中村七之助さんを揚巻役者に育てたり、若手役者にチャンスを与えたりして、少しでも基礎を叩き込もうとされてます。

しかし、立役に対しては、表だってそれをされている人はいないようです。
片岡仁左衛門さんは可能な限り指導されているようですし、松本白鸚さんも然りですが、一門の域を超えてやられているのはこのお二人位でしょうか。
本来なら勘三郎さん、そして坂東三津五郎さんがその役を担う予定だったのに、二人が相次いで亡くなり、その世代の他の役者さんではあまり思い浮かびません。
むしろ、若い海老蔵さんだったり猿之助さんだったりが育成に熱心なような気がしますが、やはり玉三郎さんのような熟練の役者ではありませんから、どうしても限度がある。
そのため、古典よりも新作に寄ってしまうのでは、と言う気がするのです。

時代の流れと言ってはそれまでですが、その時代の流れに敢えて逆らい、勘三郎さんのように古典にこだわるような役者さんが、この先現れるでしょうか。
私は勘九郎さんにそれを求めたいです。
それは勘三郎さんの息子さんと言うのもありますし、何よりも古典の勘九郎さんは素晴らしいから。
まだ30代で若いですし、将来性も抜群。
舞踊、芝居ともに器用にこなしますし、女形も少しできる。
この方も新作が多いですが、より輝くのは古典作品のような気がするのです。
顔立ちも古典的ですし、何よりも血筋が中村屋の他に、音羽屋、成駒屋と申し分ない。
これは希望なのですが、仁左衛門さんや白鸚さんらがお元気なうちにに古典の基礎を叩き込んで吸収して、「古典なら勘九郎」と言われるような役者になって欲しいです。素質は大いにあると思う。そうなると嬉しい。

心配なのは、勘三郎さんの息子さんゆえに、勘三郎さんに当て嵌めようとさせる事。
ファンはそれを望んでいると思われますが、もちろんそれもいいけど、それよりも勘三郎さんの呪縛から解き放って、のびのびと演じさせてあげたい。
彼は勘三郎さんのコピーではないのですから。

同じことが、坂東巳之助くんにも言えます。
こちらも素質は素晴らしい。
踊りは巧みですし、お父様の三津五郎さんにない魅力もあります。
ただ、最近猿之助さんとの座組みが多い影響か、少し新作に傾いている気がするんですよね。
かつての猿之助さんのように、敢えてそこから外し、古典中心に演じさせるのもいいような気がするのですが、こちらも後ろ楯がいないので、難しいのかな。今のうちにちゃんとした演目を演じさせて成長させるのって大切だと思うのですが。

そして、その危機感を役者さんたちが全員意識すること。まぁそれは持ってると思うのですよ。
でも、それを実現させている人は非常に少ない。
路頭に迷わないように、導く存在がいないと言うべきか。
皆自分や周りの事で精一杯なのかしら。
若い役者さんには、ある一定時期は古典のみを演じさせるのも大切だと思うのですよ。
若手、中堅、大御所一体となって、一門を超えて歌舞伎界を盛り上げて欲しいのです。
まだ、どこか大御所の一門や家系にやや片寄ってる気がしますし、そうでない役者さんが、例えどんなに人気や実力があっても、なかなか報われてない場合が多いです。格差と言うのでしょうか。
それが見ていて歯がゆい。
実力より血縁が濃いのが歌舞伎の世界、なのが今の現実。
そして、古典よりも新作がもてはやされているのも、今の現実。
その二つの現実を打破できる日は来るのでしょうか?

私ごときが生意気言ってすみません😣💦
でも、歌舞伎の本当の良さが伝わりづらくなっているのかな、と言う気がしまして。
決して新作を否定してる訳ではありませんので、悪しからず。

空の上の勘三郎さんや三津五郎さんらが、思わず地団駄踏むような歌舞伎界を望みます。

追伸
先日読んだ本の中に、私の思いをそのまま記載されていた下りがありました。
その一部を抜粋します。

「決まってると思い込んでいるだけだ、規則なんてない、だから変えても良いんだ」と言う、歌舞伎役者の驚きと感動に留まったことにある。
(一部省略)
このことが、周囲の歌舞伎役者の芸に悪い影響を及ぼした。
勘三郎三津五郎、あるいは橋之助(現芝翫)のように芸の規格がある程度仕上がって、揺るぐことがない役者はまだいいのである。彼らは古典をやる段になれば、教えられてきた蓄積があるから、それなりの事ができる。
問題は、芸がまだできていない役者のことである。
(一部省略)
自分の都合で安直にちょこちょこ変えることをよしとしてしまう。お客が反応すると嬉しくて、また変えてしまう。コクーン歌舞伎のおかげで勘違いをして、芸の品格が落ちた役者が少なくない。

十八代目中村勘三郎の芸 山本吉之助著から抜粋

そうなんです、いつの間にか歌舞伎でも、真剣な舞台でも、お客さんは笑いを求めるようになったこと、これが問題なのです。
もちろん、ある程度の笑いは必要です。
でも、新作だと必要以上に笑いを求められる、そう言う傾向がだんだん強くなってる気がするのです。

私は「女殺油地獄」で、与兵衛とお吉が油にまみれて争うシーンで笑いが起きることに、とても違和感があります。確かに油で滑るので、動きが不自然でコミカルなのですが、ここは殺されるか否かの深刻な場面。決して笑えるシーンではありません。
なのに所々で笑いが起きていて、何か腑に落ちませんでした。

笑いを求めたければ、他の舞台やお笑いで求めればいいのです。
歌舞伎はそこまでお笑いに頼らなくてもいい、いや頼らないで欲しいです。
こういう考えは古臭いのかな??とも。
役者さんにも少し考えてもらいたいです。
もちろん、真剣にやられているのは分かりますし、笑いをとるために演じている訳ではないと思うのです。
でも、お客さんの反応が良かったらテンション高くなってしまうのかな??